【本日のレーマ】2022年7月27日(水)
コリントⅡ 9.1
聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。
【追記】
パウロは、手紙の中で、献金の奉仕について説明しています。
原始キリスト教会における献金の位置づけがよく分かる内容です。
8.12 【もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。】
持たない物を献金しようとすれば借金をすることになります。しかし、それは禁じられています。
キリストであるお父様も借金して献金することを禁じていたという確かな証言があります。
持っている程度に応じて献金すればよいちゃんとした理由があるのです。
コリント第二には、こうも書いてあります。
8.14 【今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。】
分かりやすくまとめるとこうなります。
(1)献金した側の余裕が、献金を受ける側の欠乏を補うと同時に・・
(2)献金を受ける側の余裕が、献金した側の欠乏を補う。
通常、献金を受ける側は貧しく欠乏しているのですから、与える余裕はないはずですよね。
しかし、上記(2)は、与える余裕があると言っています。どういう意味でしょうか。
意味はこうです。(1)が金銭的な平等であるなら、(2)は心の豊かさ(愛)の平等を言っているのです。
この考えこそ、共生共栄共義につながります。
共産主義との違いを考えるとよく分かります。
金銭の平等を主張して富む者から奪うのが共産主義です。そのため、共産主義では、奪われる側が金銭的に欠乏する一方です。奪われる側の欠乏が補われることはなく、うらみが生じても愛は生じません。
遠からず、両者は互いに欠乏して衰退することになります。
(原始キリスト教会を共産主義の理想のように言う方がいますが、それは間違った考えですね)
同様に、借金したお金を献金する人も、衰退します。
借金したお金を献金する人は、献金によって得られる『心の豊かさ』がありません。
借金をしたその瞬間から欠乏が始まっているからです。
共生して、共栄し、共義を目指すなら、借金したお金を献金することは、禁じなければなりません。