【今朝のレーマ】2022年6月17日(金)
エゼキエル書 37.1
主の御手が私の上にあり、
主の霊によって、私は連れ出され、
谷間の真ん中に置かれた。
そこには骨が満ちていた。
【追記】
骨が満ちた場所といっても、不吉に思う必要はありません。
エゼキエル書37章は、こう続きます。
【見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。】
すると、バラバラの骨がつながり、肉と皮膚が生じて死体になりました。
【息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ。】
続いて、息が吹き込まれると、死体は自分で立ち上がります。それは非常に多い集団になりました。
しかし、集団は、自らの望みが消え失せたと嘆いています。彼らは肉的に生きても、霊的には死んでいるのです。
【わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れる】
ここが重要です。吹き込まれるのは肉を活かす息だけではありません。
続いて、わたし(神様)の霊が、霊的に死んだ彼らに入ります。
すると、どうでしょう。
【あなたがたは生き返る。】
【このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。—主の御告げ—】
神様は、骨になった死者をも霊的に復活させるということです。
(補足)
科学的な観点からどうなのと思われた方は、こちらもお読みください。
原理でどう解釈すればよいでしょう。
新約聖書のイエス様の十字架の場面でも、同じような出来事があります。
墓から死者がよみがえります。
その箇所の解釈を原理講論(終末論)から引用いたします。
マタイ福音書二七章52節以下を見ると、イエスが亡くなられるとき、「墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」と記録されているのであるが、これは、腐敗してしまった彼らの肉身が、再び生き返ったということを意味するものではないのである(前編第五章第二節(三))。もし、霊界にとどまっていた旧約時代の信徒たちが、聖書の文字どおりに墓からよみがえり、都にいた多くの人々に見えたとすれば、彼らにはイエスがメシヤであるということが分かったわけであるから、必ずユダヤ人たちに、イエスがメシヤであるということを証明したはずである。もしそう行動したならば、イエスはそのとき既に十字架で亡くなられていたとしても、彼らの証言を聞いて、イエスを信じない人は、一人もいなかったであろう。また、そのように旧約時代の聖人たちが、再び肉身をつけて墓から起きあがったとすれば、その後の彼らの行跡に関する記事が、必ず聖書に残っていなければならないはずである。しかし、聖書には彼らに関する何らの記事も、このほかの箇所には記載されていない。では、墓からよみがえったものは、いったい何であったのであろうか。それはあたかもモーセとエリヤの霊人体が、変貌山上においてイエスの前に現れたように(マタイ一七・3)、旧約時代の霊人たちが、再臨復活のために地上に再臨したのを霊的に見て(前編第五章第二節(三))記録した言葉だったのである。では墓は何を意味するのであろうか。イエスによって開かれた楽園から見れば、旧約時代の聖徒たちがとどまっていた霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを称して墓と言ったのである。旧約時代の霊人たちは、すべてこの霊界にいたのであるが、そのとき再臨復活して、地上信徒たちの前に現れたのであった。