【日々のレーマ】
マタイの福音書,26章39節
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
【追記】
この杯とは、十字架のことになります。
なぜ、イエス様は、できることなら十字架を過ぎ去らせて下さいと祈られたのでしょう。
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もし、この箇所をイエス様の人間的な弱さと捉えて親近感を感じれば、キリストの真の価値を損ないます。
弟子ステパノは、天を見て殉教しましたが、命乞いはしませんでした。
師を超える弟子はいないとイエス様は言われています。
弟子ステパノがそうなのに、人間の救いがかかっている十字架を前に、イエス様は命乞いをされません。
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この杯の祈りは、命乞いではありません。
人間がキリストを不信して殺せば、十字架による救いとは別に、神の王国は遠ざかります。
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イエス様が地上で最初に伝えた福音は、十字架ではありません。神の王国の福音でした。
イエス様は、十字架の艱難を生きて越えることで、神の王国による人々の救いをと願われたのです。
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そう考えると、十字架の救いに満足するだけの私はなんでしょうか。
神の王国の実現こそが、イエス様が杯の祈りで願われた救いと知ります。