そもそもの自然な成り立ちとは

【本日のレーマ】

イザヤ書29章21節
彼らはことばで他人を罪に陥れ、城門で戒めを与える者に罠を仕掛け、正しい人を、理由もなく押しのける。

【追記】

冒頭のイザヤ書には、いずれの日に立ち滅ぼされる者たちのふるまいが示されます。

それに気をつけることができれば、今より幸せになれます。

人は、神によらない自分の基準(ことば)で、他人を裁いてしまいます。

その思いが表に出れば、他人を罪に陥れ、罠を仕掛けて、正しい人まで理由もなく押しのけることになります。いずれは良心の呵責に気付きますが、そのときの後悔では取り返しがつかないかもしれません。

また、その思いを闇に隠していると、神様に自分のはかりごとを深く隠す者になって、神様との距離が遠くなってしまいます。(イザヤ書29章15節を参照)

・・・

こんな失敗には、神様から受ける自然な成り立ち(主管性)を転倒してしまったという原因があります。

そのことが、イザヤ書29章16節に、こう示されています。

ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。(イザヤ書29章16節より) 

神様があって、自分があるという、そもそもの自然な成り立ちに立ち戻ってみましょう。