ノアの水は、キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。

【本日のリマ】

ペテロの手紙第一3章21節
この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

【追記】

贖罪の十字架を経て、イエス様は、肉においては死に渡され、霊においては生かされました。

生かされた霊として、イエス様は、ノアの時代に救われなかった霊たちのところまで降りて、宣言をされます。

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ノアの昔、洪水の審判を通して救われたのは、8人のノア家族でした。

洪水の水は、地上の悪をひとたび流し切りました。

大地にかかった虹は、神様と人間との間の誓約のしるしでした。

しかし、洪水の引いた地上には、鳩(キリスト)より先に放たれたカラス(サタン)が、飛び回っていました。

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ペテロは、この洪水の水は、復活されたイエス様によるバプテスマ(洗礼)の救いの型であると言います。

十字架によってイエス様の肉が死に渡されたように、バプテスマの救いは、人の肉の汚れを取り除くものではありません。

そのため、人は、復活されたイエス様を通して、霊において救われても、肉においては依然として罪に囚われることになります。

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このことは、ペテロに限らず、復活されたイエス様に直接出会った使徒たちの共通認識だったかもしれません。

使徒パウロも、この肉の現実について、こう結論しているからです。

この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ書7章25節)

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十字架の贖罪を何より貴重視して、ひとたび救われれば、その後の肉の罪に関係なく、救いに預かると考えたいかもしれません。

しかし、復活されたイエス様と共に歩んだペテロもパウロも、そのような楽観的な認識は微塵も感じられません。

そのために、使徒たちは、その後の信仰の大切さを命がけで説いたのです。

もし間違えて「あなたは既に救われた」という万能の救いを説けば、ノアのときのようにそこから罪が拡がる恐れがあります。

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それに対して、冒頭の聖句でペテロは、肉の汚れが取り除けない現実を踏まえて、こう結論することになります。

それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。(ペテロ第一3章21節)

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ひとたび救われたなら、人の行動は、健全な良心に従うものにしなければなりません。

それこそが、ノアの昔にもあった、神様と人との間の誓約になります。

それは、イエス様の時も、今の世も、変わりません。