【本日のリマ】
ガラテヤ人への手紙3章10節
律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
【追記】
パウロ自身は、イエス様に出会って回心するまで、熱心なパリサイ派の信徒でした。
そのため、ここでパウロが語る《律法》とは、《パリサイ派の律法》になります。
では、冒頭の聖句でパウロが語る、《律法の呪い》とは何でしょう。
主の兄弟ヤコブの言葉を借りれば、こうなります。
律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。(ヤコブの手紙2章10節)
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つまり、パリサイ派の《律法の呪い》は、《減点法》ということです。
最初は、律法に反していないので100点満点から始まったとします。
そこから律法を守っても、それ以上に点数が上がることはありません。
一方、律法の一つに過ちを犯せば、点数がどんどん減点されます。
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この考えからは、信仰による善行を行っても、点数は上がりません。
むしろ、その善行が、律法の一つにでも反すれば、減点されます。
イエス様が安息日に病気を癒やしたことに対して、パリサイ派が怒った理由がここにあります。
ここで怒った人々は、神に仕える人ではなく、《律法の奴隷》だったのです。
奴隷の立場では、なぜ神様が律法を自分たちに与えたのか、本当の目的を知ろうとしません。
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では、パウロは、律法の目的をどう捉えているでしょう。
律法は、来るべきキリストに人々を導くための《養育係》だったとなります。(ガラテヤ3章24節を参照)