自分の常識につまずかないため

【本日のリマ】

ヨハネの福音書6章66節
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

【追記】

冒頭の聖句は、イエス様につまずいて、多くの弟子たちが去っていく場面です。

このとき、イエス様の基台に残ったのは、12名の弟子になります。

他の多くの弟子たちは、何につまずいたのでしょうか。

イエス様が直前に話された次の言葉につまずいたのです。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。(ヨハネ6:56)

このイエス様の言葉に対して、弟子のうちの多くの者はこう言ったのです。

「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(ヨハネ6:60)

人間の血肉を喰うとは、当時も今も常識に反するひどい話になります。

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現代であれば、このイエス様の言葉は《イエス様を生命の主として受け入れる》ことだと解釈されます。

これこそが、穏当な解釈だと思います。

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ただ、そう解釈すると、一点だけ疑問が起こります。

イエス様は、なぜ、弟子たちがつまずく表現をわざわざ言う必要があったのか。

本当にそう言いたかったのなら、イエス様は《わたしを生命の主として受け入れよ》と言えば済むことでした。

そうすれば、弟子の多くはつまずかないでしょう。

生命の主であるイエス様から離れることになった弟子たちにすれば、それこそひどい話になります。

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このことについての答えは、キリストの立場に立たない者には分かりえないことでしょう。

なぜなら、イエス様は、ここでの話をされるにあたって、こう言われていたからです。

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。(ヨハネ6:38)

ここに、イエス様の覚悟が示されているように感じます。

イエス様が、ここで言われたことは、ご自分の思いではなく、神様のみこころ(つまり天の秘密)に関することだったでしょう。

たとえそれが自分の常識に反することであっても、イエス様の言葉が神様のみこころであるかぎり、人はそれを信頼し信じるばかりです。