自分でジャッジしない

【本日のリマ】

マタイの福音書13:29
しかし、主人は言った。いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。

【追記】

イエス様の毒麦のたとえです。

主人は畑に良い種を蒔きました。

ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去ります。

冒頭の聖句では、主人は、しもべが毒麦を抜き集めることを止めます。

しもべには、毒麦と良い麦の区別がつかず、良い麦まで抜き取ってしまうからです。

それは、神でもキリストでもない人(つまり私達)は、ジャッジ(審判)をしない方がよいという意味になります。

・・・

イザヤ書11章には、メシヤ預言としてキリストについてこう預言されています。

その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、(イザヤ11:3)

正義をもって弱い者をさばき(注:原語では無罪/有罪の両方の意味有り)、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。(イザヤ11:4)

ここに、キリストと、そうでない人(毒麦を抜き集めるなと言われた人)との違いが明らかです。

人がジャッジをすれば、見聞きするところで行うしかありません。その場合、毒麦と良い麦を選び損ねるおそれがあります。

しかし、キリストは、神様の視点(正義と公正)をもってジャッジをします。

緊急でなければ、人の立場では相手をジャッジをせずに見守ることも大切です。

相手に対するジャッジは、神様とキリストにまかせることが、信仰者としての心構えになりますね。