岐路にあって

【日々のレーマ】2022年8月20日(土)

エレミア書 24.9
わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。

【追記】
エレミア書24章は、イスラエル民族がバビロンに捕囚になった時代です。
とは言っても、イスラエルの民すべてが、バビロンに連れて行かれたわけではありません。

一部がバビロンに捕虜として連行され、捕囚の民になったのでした。
バビロンに連行されなかった民は、イスラエルに残りました。

バビロンで捕囚になる運命か、イスラエルに残る運命か・・
自分の意志で選ぶことができたとは思えませんが、人生の岐路でしょう。

捕囚の民は、イスラエルでのそれまでの家族や生活や仕事を捨てなければなりません。ゼロからの出発です。捕囚の民にとっては、異教の地バビロンにおいて信仰を保つことも試練になったでしょう。

イスラエルに残った方が楽だったかといえば、そうでもないでしょう。
丈夫な働き手はもちろん、支え合う家族を奪われたと想像できるからです。

捕囚になる者と、イスラエルに残る者と、どちらにも神様から受け持った使命(責任分担)があったでしょう。
人間に対する神の予定において、人間の責任分担に神様は干渉されません。人間自らの努力が求められます。
その期間、神様は、親のように願いを込めて見守ることしかできません。

そして機が熟して、神様は、エレミアに2かごのいちじくの幻を見せました。

一方のかごには、非常に良い状態のいちじくが入っていました。
神様は「良いいちじくのように、捕囚の民を良いものにしようと思う」と、エレミアに言います。

そして、神様は捕囚の民に対する具体的な計画を告げます。
6【わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。】
7【また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。】
捕囚の民にとって明るい計画ですね。

もう一方のかごには、非常に悪い状態で食べられないいちじくが入っていました。
こちらは、イスラエルに残った人々の状態です。
食べられるいちじくを腐らせてしまったということでしょう。
冒頭の聖句は、イスラエルに残った人々がその責任をどうとるかという話です。

私たちは、自分の意志か否かに係わらず、それぞれの道を進みます。
どちらの道であろうと、いちじくを腐らせるようなことがあってはいけません。
そのためには、与えられた環境でできることをすることが大切です。必ずできることがあるはずです。
神様は、親のように願いを込めて見守っておられます。

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