勧善懲悪によるミスリード

【今朝のレーマ】
2022年7月1日(金)

ヨブ記 24.10

彼らは着る物もなく、

裸で歩き、

飢えながら麦束をになう。

【追記】

善人ヨブの家には度重なる不幸が襲います。

そのヨブが神様に問いかけます。

なぜ神様は、貧しく困っている善人を救い、悪人を懲らしめてくれないのか。

ここでのヨブは、なぜ神様が沈黙されるのか、まだ光が見えません。

私のように信仰の浅い者は、勧善懲悪という都合の良い神をついつい期待してしまいます。

そして、自分自身の現実がそうでないとき、神様を恨みます。

原理講論の総序にもこうあります。

【このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻 す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。】

神様への恨みが、唯物思想、すなわち無神論の温床になるということです。

しかし、ヨブは、不幸の中にあっても神様を恨みませんでした。

そして、ヨブ記の結末において、ヨブは一明の光を与えられるのです。

ヨブは、そこで神様の本当の気持ちに気付き、深い信仰に至るのです。

(本日の補足)

勧善懲悪(の神ならぬもの)にすがることの弊害について

もう少し身近な例をあげます。

ネットには、私たちにとって都合の良い情報が散乱しています。

・反ワクチンに善かれと嘘で固めた偽情報

・トランプが勝っているといったQの情報操作

それを信じたくなる気持ちはよく分かります。

しかし、それを信じることは、神ならぬ虚構を信じる偶像崇拝になります。

亨進牧師は、都合の良い虚構を信じることを、非現実楽観主義だと戒めておられます。

特に神側に似ているものには要注意です。その根源は神様ではないからです。

サタンは神様に先立って似て非なる非原理世界をつくると原理講論にあるとおりです。

似て非なるものに踊らされた者はどうなるでしょう。

詐欺の被害者と同じです。騙された現実から逃れようと、さらに都合の良い情報を常に探すことになります。

この世の都合のよい情報を探すのではなく、神様の御言葉に戻らなければなりません。