キリスト教弁証論の学び-子供たちへ

子どもたちへ

今回、キリスト教弁証論の講座を受けて、改めて「なぜ私は神様を信じているのだろう」と考える機会が与えられました。

聖書のペテロの手紙第一3章15節~16節には、自分のうちにある希望について説明を求める人に対して、キリストを主とし、柔和さと敬意をもって弁証することが教えられています。私はこの講座を通して、弁証とは自分の考えを相手に押しつけたり、議論によって相手を言い負かしたりすることではなく、「私はなぜ神様を信じているのか」をキリストを主とする信仰に立って考え、尋ねられたときに誠実に伝えることなのだと感じました。

まず、今回の学びの中で心に残ったのは、人間の「良心」についてです。人は善いことをしたときには心に喜びや平安を感じ、反対に悪いことをしたときには、たとえ誰にも知られなくても後悔することがあります。もちろん、人によって何を善いと考えるかには違いもあります。それでも、誰の心にも善を求め、悪を避けようとする良心があるように思います。そのように良心の働きを感じる中で、私は愛と善の根源として神様がおられるのではないかと感じています。

また、この宇宙の存在について考えたことも心に残りました。現在の宇宙論では、宇宙の時間と空間に始まりがあったと考えられることを学びました。宇宙に始まりがあるとすれば、「なぜ宇宙は存在するようになったのか」という問いが生まれます。私はその問いを考えるとき、聖書が語る天地創造と、時間と空間を超えて存在される神様を思います。

さらに、宇宙には、銀河や星が形成され、太陽系や地球が存在し、その上で生命が生きることのできる条件が非常に精密に整っています。いわゆるファインチューニングの問題です。その精密な条件が偶然によるものとする立場もあると思います。しかし私は、生命が存在できるほど精密な秩序を持つ宇宙が存在することから、そこに単なる偶然以上のもの、すなわち創造者である神様の意思と目的があったと感じます。

生命の起源や進化についても、今回改めて考える機会がありました。講座では、進化について「小進化」と「大進化」という考え方を学びました。私は、同じ種の中でさまざまな特徴が生じる小進化については受け入れることができます。一方、生物の小進化が自然界で長期間にわたって累積することで種を超えて変化するという大進化については、私は大きな飛躍を感じます。現在示されている科学的な説明や証拠を踏まえても、生命の起源から現在の多様な生命、そして人間の誕生に至る長い道筋のすべてを、偶発的な積み重ねによるものと考えることに、私は十分には納得できませんでした。

むしろ私は、宇宙の始まりから人間の誕生に至るまでの長い道筋のすべてが、天地創造に先立って神様のうちにあらかじめ計画されていたのではないかと感じています。

だからといって、科学が宇宙や生命を探究することと、神様を信じることが互いに相容れないと考えているわけではありません。地上には現に多くの生命が存在し、それぞれが生命を次の世代へと紡いでいます。その多様な生命がどのように生じ、現在の姿に至ったのかについて、これからも科学的な探究によって明らかにされていくことを期待しています。そして、生命について深く知れば知るほど、「なぜこのような生命が存在するのか」という問いは、私にとって創造者である神様を考えるきっかけになります。

もちろん、これらのことだけで神様のすべてを明らかにできるとは思っていません。それでも、良心の働き、宇宙の始まり、宇宙に見られる精密な秩序、そして生命の存在について一つ一つ考えていくと、私はその背後に神様の存在と意思、そして何よりも、私たちを包み込む愛を感じます。それが、私が神様を信じる大切な理由になっています。

いつかあなたたちも、「自分はなぜ生きているのだろう」「この世界はどこから来たのだろう」「神様は本当におられるのだろうか」と考える日が来るかもしれません。そのとき、私の考えをそのまま受け入れてほしいとは思いません。自分自身で問い、考え、学び、そして神様を求めてみてほしいと思っています。

そして、もしそのとき「お父さんは、なぜ神様を信じているの?」と尋ねられたなら、私は今日書いたようなことを、あなたたちを大切に思う気持ちとともに、柔和さと敬意をもって伝えたいと思います。