善なるは、神様とキリスト

【日々のレーマ】

歴代誌第二,10章15節
王は民の願いを聞き入れなかった。神がそう仕向けられたからである。

【追記】

人間の良心は、勧善懲悪のストーリーを好みます。

それはそれでよいのですが、人は、目の前の出来事を勧善懲悪に当てはめることで、善人役と悪人役をすぐに決めがちです。

しかし、そこだけで判断すると、身を誤る場合があります。

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その教訓として、冒頭の聖書の箇所を、見てみましょう。

ここに、古代イスラエルが、南ユダ王国と、北イスラエルに分裂するきっかけの出来事があります。

このときの古代イスラエルの王様は、ソロモンの子レハブアムです。

一方、民衆の代表は、エジプトに亡命していたヤロブアムです。

この民衆の代表は、王様に、過酷な労働と重いくびきを軽減して欲しいと願います。

しかし、王様は、この要求をはねつけます。

そのため、納得しない民衆たちは、王様を見限って、袂を分かちます。

そして、ダビデの血統を王様とする南ユダ王国と、その支配に不満を持つ北イスラエルに分裂することになります。

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ここまでを読むと、民衆を理解しなかった王様が悪人役で、民衆側の北イスラエルが善人役のように思えます。

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しかし、北イスラエルは、エルサレムの神殿に対抗するため、悪なる偶像崇拝を国の柱としました。

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では、民衆の側が悪であったのなら、王様の側が善だったのでしょうか。

いいえ、北イスラエルが分裂したのち、王様であるレハブアムも偶像崇拝に染まっているのです。

こちらの偶像崇拝も、悪なのでした。

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こうみるとき、聖書の一章のみをピックアップして、人間が勧善懲悪で判断すると、おかしなことになると分かります。

聖書は、神様の意志を全体のテーマとして、綴られた書です。

その全体のテーマから分かることは、善なるは、神様であり、キリストであるということです。

そして、そこに近づこうとするのが、本来の正しい人間であり、幸福な人生であるということです。