神が許されるなら

【本日のレーマ】

ヘブル人への手紙6章3節
神が許されるなら、先に進みましょう。

【追記】

初期の教会は、ステパノが殉教したように、激しい迫害を受けていました。

様々な事情の中、キリスト教から離れざるをえない者も、少なからずいたことでしょう。

朝に出発して、夕に帰らない人のことです。

現代からは安易に想像できない状況です。

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そんな時代を背景に、使徒たちの書簡を読むと、深い内容に気づきます。

例えば、ヘブル書6章の前半では、信仰の成熟を次のように説いています。

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私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。(ヘブル書、6章1節より)

基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。神が許されるなら、先に進みましょう。(ヘブル書、6章2節から3節より)

当時の迫害の中で、幼い信仰のままでは、霊のいのちが保てないという真剣さが感じられます。

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それに続く、ヘブル書6章6節は、とても難解な箇所です。

信仰の道から堕落した者がもう一度悔い改めて立ち返ることができるかといった問題に触れるからです。

それでも、次の箇所は解釈が一致します。

彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらし者にする者たちだからです。(ヘブル書6章6節より)

キリストの犠牲のもとに救われたいのちを自ら手放すことは、それまでに払われたキリストの犠牲を無にし、キリストにもう一度犠牲を払わせるということです。

それほどに、キリストは、私たちの救いのために、一度ならず何度も犠牲にかかられる方です。

そうであれば、様々な事情があっても、救われたいのちを自ら手放すべきでないという教えになるでしょう。