《自分が今あるのは、この時のためかもしれない》という善なる動機

【本日のレーマ】

エステル記8章16節
ユダヤ人にとって、それは光と喜び、歓喜と栄誉であった。

【追記】

エステル記は、バビロン捕囚から開放された後の時代、ペルシャに残ったユダヤ人の話です。

ペルシャの宰相ハランの企みによって、ユダヤ人を根絶やしにする一日が布告されました。

ユダヤ人が絶滅する一日が、予定されたことになります。

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そこで、ペルシャ王の王妃エステルは、王の前で自分がユダヤ人であることを告白します。

このときの王妃エステルには、「この王国に来たのは、この時のためかもしれない」という養父の言葉が胸にありました。そのための覚悟をもって、王に訴えたのでした。

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王妃エステルの態度は、王に通じます。

王によって宰相ハランは処刑され、滅びが予定された一日は、ユダヤ人がいのちを守るために集まって反撃を許される一日に変わりました。

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エステル記は、神様が預言者を通したかたちで登場しない点で、旧約聖書のなかでは異色の書です。

しかし、「自分が今あるのは、この時のためかもしれない」という善なる動機に、神様が生きてはたらくことを示す書です。