【本日のリマ】
ペテロの手紙第一3章18節
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
【追記】
ペテロの手紙第一3章18節から22節までは、解釈が分かれるそうです。
そこで、なるべく聖書の通りに考えられれば幸いです。
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まず、冒頭の聖句で、ペテロは《キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました》と書いています。
キリストは、罪なく誕生された方です。
その罪のないキリストが、《罪のために苦しみを受けられ》る必要があったのでしょうか。
イザヤ書には、こうあります。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。(イザヤ書63章9節)
愛とあわれみのゆえに、罪ある私たちが苦しむとき、罪なき主が同じ苦しみを背負われるのです。
そのことは、親が、苦しむ我が子を見て感じる苦しみと変わりません。
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その究極の苦しみが、イエス様の十字架になります。
《正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです》は、キリストの十字架を指します。
その十字架によって、《イエス様の肉体は死に渡され》ることになりました。
確かに、息を引き取ったイエス様の肉体は、十字架から降ろされ、地上の墓に葬られます。
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一方、イエス様が十字架の上で、息を引き取る前、こう叫ばれます。
「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23章46節)
そのことが、ペテロが言う《霊においては生かされて》になるでしょう。
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この《霊において生かされ》たイエス様のその後の行動について、ペテロは天の秘密をこう明かしています。
その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。(ペテロ第一3章19節~20節)
その霊においてイエス様は、ノアの時代に救われなかった霊たちのところ(よみ、または地獄)に行かれて、宣言をされたことになります。
そして、その霊において、イエス様は、地上の多くの人に顕れたことでしょう。
皆様も、是非この箇所を読んで、それぞれに解釈していただければ幸いです。
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ペテロの手紙第一3章22節までの残りについては、明日にさせていただきます。