キリスト教弁証論の学び-子供たちへ

子どもたちへ

今回、キリスト教弁証論の講座を受けて、改めて「なぜ私は神様を信じているのだろう」と考える機会が与えられました。

ペテロの手紙第一3章15節には、自分のうちにある希望について説明を求める人に、いつでも答えられるように備え、しかも柔和さと敬意をもって答えることが教えられています。私はこの講座を通して、弁証とは自分の考えを相手に押しつけたり、議論によって相手を言い負かしたりすることではなく、「私はなぜ神様を信じているのか」を自分自身でよく考え、尋ねられたときに誠実に伝えることなのだと感じました。

その一つが、人間の「良心」についてです。人は善いことをしたときには心に喜びや平安を感じ、反対に悪いことをしたときには、たとえ誰にも知られなくても後悔したり、良心の呵責を覚えたりすることがあります。もちろん、人によって何を善いと考えるかには違いもあります。それでも、人の心には善を求め、悪を避けようとする働きがあるように思います。私自身も、日々の生活の中で良心に問いかけられることがあります。そのような経験を重ねる中で、私は善と愛の根源として神様がおられるのではないかと感じています。

また、この宇宙の存在について考えたことも心に残りました。講座では、熱力学の第二法則などを手がかりとして、宇宙が永遠の過去から現在までそのまま存在し続けてきたと考えることには難しさがあり、宇宙の時間や空間にも始まりがあると考えられることを学びました。宇宙に始まりがあるとすれば、「なぜ宇宙は存在するようになったのか」という問いが生まれます。私はその問いを考えるとき、聖書が語る天地創造と、時間や空間を超えて存在される神様を思います。

さらに、宇宙には、銀河や星が形成され、太陽系や地球が存在し、その上で生命が生きることのできる条件が非常に精密に整っているという、いわゆるファインチューニングの問題があります。それを偶然によるものと考える立場もあると思います。しかし私は、生命が存在できるほど精密な秩序を持つ宇宙を見たとき、そこに単なる偶然以上のもの、すなわち創造者である神様の意思と目的を感じます。

生命の起源や進化についても、今回改めて考える機会がありました。講座では、進化について、種の範囲内で環境に適応しながら多様化していく「小進化」と、長い年月を経て異なる種類の生物へと変化していく「大進化」という考え方を学びました。私は、同じ種類の生物の中でさまざまな特徴が生じ、環境に応じて多様化していく小進化については受け入れることができます。一方で、生物が種を超えて大きく変化し、最終的に現在の多様な生命や人間にまで至ったとする大進化については、私は現時点では受け入れることができません。

しかし、それは科学そのものを否定したいということではありません。地上には実に多くの生命が存在し、それぞれが生命を次の世代へと紡いでいます。その多様な生命がどのように生じ、現在の姿に至ったのかについて、これからも科学的な研究によって明らかにされていくことを期待しています。そして、どこまで科学的な探究が進んだとしても、それは神様が生命を創造されたという私の信仰と必ずしも矛盾するものではないと考えています。むしろ、生命について深く知れば知るほど、「なぜこのような生命が存在するのか」という問いは、私にとって創造者である神様を考えるきっかけになります。

もちろん、これらのことだけで神様の存在を完全に証明できるとは思っていません。信仰は、数学の答えのように一つの証明だけで決まるものではないからです。それでも、良心の働き、宇宙の始まり、宇宙に見られる精密な秩序、そして生命の存在について一つ一つ考えていくと、私はその背後に神様の存在と意思、そして愛を感じます。それが、私が神様を信じる理由の一つになっています。

いつかあなたたちも、「自分はなぜ生きているのだろう」「この世界はどこから来たのだろう」「神様は本当におられるのだろうか」と考える日が来るかもしれません。そのとき、私の考えをそのまま受け入れてほしいとは思いません。自分自身で問い、考え、学び、そして神様を求めてみてほしいと思っています。

そして、もしそのとき「お父さんは、なぜ神様を信じているの?」と尋ねられたなら、私は今日書いたようなことを、あなたたちを大切に思う気持ちとともに、柔和さと敬意をもって伝えたいと思います。